立ち尽くす八月

八月、盛夏である。一年の中でも、とりわけこの時期は死者に一番近い季節のような気がする。お盆という死者と交流する一年に一度の行事があるからだろうか。終戦記念日にあたり戦争や戦死者へと思いを馳せるからであろうか。それとも、大切な人を亡くした自分自身の記憶から生まれる個人的な思いなのだろうか。

しかし、強く眩しい太陽の光の反対側に出来る暗い影、たくましい生命力を見せる自然界に飲み込まれてしまうような命のはかなさを感じるという、この季節がもたらす特有の要因も多分に含まれると思うのである。

そう、盛夏。自分自身と関係があるなしに関わらず、亡くなった人のことに思いを巡らす季節である。個人的には死後の世界とか前世とか来世とか、死者が私たちを見守ってくれているとか、信じていないし実感したこともない。お盆の迎え火に死者が乗ってくるとか、命日の墓参りとか、そういう風習は子供の頃から経験しているのだが、仏壇にもお墓にもその人を感じたことが一度もない。見えなくてもそこにいれば感じるはず、たぶんここにはいないと「思って」いるのではなく「分かって」いる。

それでもこの時期、死者は私の胸に訪れる。何かを私に語りかけたり、感動的な記憶を蘇らせたりすることはない。ただ、そっと静かにそこにいる。束の間、その人のいた場所へ、そこにいた頃の自分、いなかった頃の自分へと旅をする。そして手の届かない距離に絶望する。

ただ、時々思うのだ。かつて出会った人、一緒に過ごした人、大切な存在であったのにもう縁の途切れた人たち、会うことはおろか、連絡すら取れない人たちがたくさんいる。恐らく今も生きていて、それでも会えない人たちと、もう今は亡くなってしまって会うことは叶わない人たちと、その違いは何だろうか、と。音信不通になってしまってもどこかで生きていれば、いつか会えるかもしれない、そんな希望が心を救うのだろうか。

いや、違うのだ。間違ってはいけない、一番の悲しみは亡くしたこちら側の悲しみではなく、亡くなったその人自身の悲しみであるはずだ。生きていればその人は幸せであろうとなかろうと、その人の人生を歩むことが出来る。そのことに私は救われもし、諦めも出来るのだ。亡くなったしまった人の時はもう止まったままだ。その人の刻めなかった未来、その人に伝えられなかった思い、それが私を絶望させるのだ。

盛夏。焼け付くような太陽、その反対側に出来る暗い影。生と死の距離が一番近くなる季節。その手触りに私はただ立ち尽くす。

2013年8月11日(日)


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